美人画礼賛

《少女》菊池契月|不断の努力こそ美しさへの王道

《少女》菊池契月

普段着でも彼女が美しく見えるのは何故か?

くつろいで座る姿の中にも、凛とした空気を纏う菊池契月の《少女》。
華美な衣装は着ておらず、髪をキッチリ結い上げるのでもない、普段着の飾らない姿でありながら、そこに美を感じるのは何故でしょう?

作品のモデルは、契月の長男(彫刻家・菊池一雄)の嫁ともされています。古さを全く感じさせない現代的な雰囲気を持つこの作品が、昭和7年に描かれたことに驚かされます。画面全体に薄く金泥が刷かれ、その描線の端麗さや女性の聡明な表情から、仏画の雰囲気をたたえていると評されることもあります。

《少女》菊池契月

細部を拝見していきましょう。
無造作とも思えるような、ごく簡単に纏められた髪型ですが、額に髪の毛を落とさぬようスッキリと見せているところが、彼女の知性を感じさせるのに一役買い、顔まわりの黒髪が、肌を陶器のように白く見せています。
(余談ですが、歌舞伎の世話物などで茶髪で登場する女性は、ほつれ毛が目立ち、大抵は不健康で生活に疲れており、生娘ではありません。艶のある黒髪こそ、日本人女性の美しさと若さの象徴とされていました。)

着物は単衣の附下げ小紋でしょうか。まだ肩上げをしているようにも見えます。
抑えた色調の中に、つがいの鳥や貝、小花が描かれています。着物と同じ色合いの縞の半幅帯を締めることで、主張しすぎない品のある統一感を演出しているのです。着物と帯を同系色でコーディネートするワザに、知性を感じさせる装いのヒントがありそうですね。
全体をスッキリとまとめられるか、あるいはぼんやりとした印象になってしまうかは、着る方の美意識次第。ぜひ挑戦して頂きたいです。

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そして、裾を軽く押さえた手の指先や、足先がふっくらとして形が良く、清潔に切り揃えられた爪は、普段の生活を丁寧に過ごしていることの表れでしょう。(人前では足袋を履いて隠れる事が多い素足こそ、常に磨いておかねばならないのでございますね…。)

その人の自然な「美しさ」を導くには、毎日の小さな美への意識を怠らないこと。
不断の努力こそ美しさへの王道と心得て、私めも精進したいと思います。
 
清澄なる美を正攻法で描いた唯一人のひと

菊池契月肖像

「美しい人」の共通項を発見し、独自の表現へと昇華させた作者・菊池契月についてもご紹介致しましょう。

契月は名を完爾といい、1879年(明治12年)に長野県中野市に生まれました。幼い頃から絵を描くのが好きで、南画家・児玉果亭に入門しますが、父が画家になることを反対した為、高等科卒業と同時に呉服屋の丁稚へ預けられたり、製糸工場や中野町役場など、職を転々とします。しかしどれも長続きせず、画家への夢は膨らむばかり。1896年(明治29年)、ついに故郷を出奔します。

京都では、四条派・菊池芳文へ入門することを許されました。芳文は、竹内栖鳳、都路華香、谷口香嶠とともに「楳嶺門下の四天王」とされた京都画壇の重鎮で、花鳥画を得意としていた画家です。
契月の誠実な人柄や、真摯な制作態度が芳文に認められ、娘のアキと結婚して婿養子となりました。

 
1918年(大正7年)には京都市絵画専門学校教授となり、後進の指導にも尽力。1922年(大正11年)、京都市からの命を受けた欧州への視察旅行が、その後の画風へ変化をもたらしたとされ、大和絵や仏教絵画といった古典を再研究し、やがて端麗な描線や、計算された画面構成を確立しました。
奇をてらって人の目を驚かせる絵ではなく、粋好みの洒落っ気も見られませんが、聡明で典雅な香りさえする独自の画風を完成させるに至ったのは、真っ向から自己の芸術を探求し続け、弛まぬ努力研鑽と高い精神力によるものでしょう。

笠岡市竹喬美術館_菊池契月展_《朱唇》

同時期に活躍していた東の画家・鏑木清方は、西で活躍した契月を次のように述懐しています。

「誰でもその画は作者の性格を佯(いつわ)るものではないと云ふがその通りで、菊池さんはその風牟(ぼう)なり、挙止なりが、その画かれるものとひとがらとに、毛筋ほどの食い違いもなく、長く接していて人を信じ切ることのいかに愉しいかを切実に訓えられた。…(中略)…数年前友人のT君に托して贈られた、江戸麹町、いわきますやと、駿河町のゑちごやとの、包紙も真新しく見えるほどの婦女用の綿帽子と、金箔を押して太く綰た元結とが、今はなによりの形見と愛蔵している。これに対すると、いつも私は、君の画に見る端正な婦女像を偲ぶのである。」
(『菊池契月画集』序文「こころのとも」1956年/美術出版社)

 
今回ご紹介の《少女》を実際にご覧頂ける展覧会が、笠岡市立竹喬美術館(岡山県笠岡市)にて「《特別展》没後60年 菊池契月展」と題して開催されます。(会期:平成27年1月31日~3月15日)
契月の初期から晩年に至るまでの代表作66点に触れることが出来る貴重な機会ですので、是非ご高覧下さい。
(中千尋)

 

【作品解説】

昭和7年(1932年)に開催された第8回菊池塾展に出品。
長男(彫刻家・菊池一雄)の嫁をモデルにして描いたともされ、契月にしては珍しく現代女性風俗を描いている。欧州からの帰国後、日本の古典を探求してきた契月のひとつの成果と言えよう。

【作家略歴】

菊池契月(きくちけいげつ)1879~1955(明治12年~昭和30年)
長野県中野市(旧下高井郡中野町)生まれ。旧姓細野、本名完爾。13歳(明治25年)で児玉果亭(田能村直入門下)に師事。17歳(明治29年)で、同郷の町田曲江(後に寺崎広業へ入門)と共に京都へ出て、南画家・内海吉堂(塩川文麟門下)に学ぶ。翌年、吉堂の推挙で菊池芳文(幸野楳嶺門下)の塾へ移る。菊池塾入門の翌年に第4回新古美術展に出品した《文殊》で褒状一等を獲得し、早くから頭角を現す。27歳(明治39年)で菊池芳文の長女アキと結婚し、芳文の養嗣子となる。第2回文展(明治41年)において《名士弔葬》が2等賞を受賞したのを皮切りに、《供燈》(明治43年)、《鉄漿蜻蛉》(大正2年)、《ゆふべ》(大正3年)などが次々と高い賞を獲得。後に文展および帝展で審査員を務める。1918年(大正7年)に京都市絵画専門学校教授となり後進を指導。芳文亡き後、菊池塾を主宰。1922年(大正11年)、中井宗太郎、入江波光とともに欧州出張。帰国後は古典研究を深める。昭和9年帝室技芸員。昭和30年に76歳で亡くなり、京都市美術館において市民葬が行われた。

 

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今回の「美人画礼賛」をもって連載を終了させて頂きます。(美人しぐさ編集部

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