美人画礼賛

《願いの糸》北野恒富|可憐に見せたくばインナーマッスルを鍛えよ

七夕の日には星に願いを

《願いの糸》北野恒富

星に願いごとを…… なんて可愛らしいことをしたのは、いつの頃だったかすっかり忘れてしまいましたが、今回ご紹介する《願いの糸》に描かれた乙女を観ていると、ちょっと甘酸っぱい気持ちがよみがえります。ピュアなあの頃には戻れなくても、“可憐さ”を演出するしぐさは覚えておいてソンはありません。皆さまご一緒に、そのテクニックを学んでいきましょう。

盥(たらい)に水をはり、天の川を行く舟の「舵(かじ)」にかけた「梶」の葉を浮かべて、夜空に輝く牽牛と織女の星合の様子を水面にうつしながら、針に糸を通し、技芸や裁縫の上達を願う七夕の風習や「乞巧奠(きっこうてん)」の様子を描いた絵のように見えます。しかし、「紅白の糸」「結綿(ゆいわた)に結った日本髪」「麻の葉柄の襦袢」などを眺めていますと、私はどうしても、人形浄瑠璃・歌舞伎でおなじみの「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」 に登場するお三輪(みわ)のことを想像してしまいます。(「妹背山婦女庭訓」の詳しいストーリー紹介はこちら

七夕の日に、恋愛成就を願って紅白の苧環(おだまき)をお供えし、求女(もとめ)の裾に糸を縫い付けて跡を追ったことから事件に巻き込まれていくお三輪は、恋する男のためならば、自らの命を差し出すこともいとわない情熱的な女の子です。(ちなみに、お三輪を主役にした常磐津の舞踊は「願糸縁苧環(ねがいのいとえにしのおだまき)」といいます)
場面設定の個人的妄想は永遠と続くので、この辺りで切り上げまして……以下で「可憐に見えるしぐさ」をご紹介します。

 
可憐な乙女が密かに鍛えるインナーマッスル

中腰のような体勢になり、針に糸を通そうとしているのですが、膝は床に着いていないのがおわかりいただけるでしょうか?そして、わずかに前傾姿勢を保ちつつも、背中を丸めたりはしないのです。猫背になったり、肩をすくめてしまっては、美人が台無しです。背筋を通しつつ腰を折り、腹筋、背筋、大腿筋、脛(すね)やお尻の筋肉全てを使って、この体勢のバランスを見事にとっています。おっとりした風貌と、五つ紋のしとやかな振袖姿とは裏腹に、かなりインナーマッスルを鍛えていらっしゃいますね。
真剣に針を見つめるあまり、僅かに立ってしまった両手の小指。でも肘を張ることはしていません。着物を着ているときには、いつも「なで肩」で、「肘が脇腹あたり来る」ように意識してみて下さい。肩甲骨を下のほうに下げつつ、背骨の中心線へ寄せると、なで肩に見せることができます。肩が下がって首がすらっと長く見える効果もありますよ。やりすぎると不自然に見えてしまうので、鏡などを見ながら、ご自分の丁度良いバランスを見つけてくださいね。

北野恒富《願いの糸》

優しい色味の灰桜色の振袖には沢瀉(おもだか)が描かれています。沢瀉は、河川や湿地など、水のあるところに育つ植物で、天の川を連想させます。紺地の帯には瑠璃色の桔梗が配され、まるで夜空の星のようですね。丹色の襦袢は麻の葉柄。麻の葉は、あどけなさ、可愛らしさを表わす町娘役に欠かせない文様のひとつです。(お三輪の襦袢も麻の葉の段鹿の子です)髪型は、若い娘が結う結綿。珊瑚色の「わげくくり」(髷かけ)が夏らしく、すっきりした印象を与えます。おちょぼな下唇が緑色なのは、「笹色紅」を塗っていることをあらわします。紅花(ベニバナ)からとった紅は、唇に塗って乾かすことを繰り返すと、玉虫色のような輝きを発します。紅がたいへん高価だった時代にこのような化粧をする事は、たいへん贅沢なことでしたので、これは豊かさの象徴ともいえましょう。背中に挿したお扇子は、芸舞妓が正装の時に背中の右側に挿す扇子にも似ていますが、お三輪や求女が苧環を背中に挿した情景を暗示して描いているのかもしれません。

今回は、私の妄想がだいぶ先行してしまいましたが、可憐な姿の乙女も、美しいポーズを維持するために全身の筋肉を鍛えていらっしゃることが分かりました。美人しぐさは一日にしてならず!と自分に言い聞かせる日々でございます…。(中千尋)

 

【作品解説】

日本美術院再興記念第1回展(大正3年)に出品された《願の糸》と類似点のあるこの作品は、同年頃に制作されたと考えられている。あえて単純に表現した線や、片暈し(かたぼかし)で一気に描いた沢瀉からは、恒富の幅広い技量がうかがえる。縦に長い画面の右上に紅白の糸を吊るして天上への空間を意識させ、下方に娘を小さくまとめて描くことで、地上で願いを捧げるいじらしい乙女の気持ちを表現しようとした構図と見てとれる。

【作家略歴】

北野恒富(きたの つねとみ)1880~1947(明治13年~昭和22年)
金沢市十間町生まれ。本名富太郎。明治30年に大阪へ出て、翌年稲野年恒に師事。新聞の挿絵や、ポスター画を描いて人気を博す。第4回文展(明治43年)に《すだく虫》が初入選。《日照雨》が第5回文展(明治44年)で三等賞になるなど、大阪在住の日本画家としての地位を確立していった。また、“悪魔派”と評されるなど、頽廃的な匂いの漂う女を描いて独自の存在感を見せつけた。以降、恒富から影響を受けた多くの画家たちが画壇に登場するようになる。画塾「白耀社」を主宰して中村貞以、樋口富麻呂、生田花朝女ら多くの門下生を育てた。昭和22年、68歳で没す。

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