美人画礼賛

《薄雪》鏑木清方|薄幸美人「梅川」の妖艶なエロティシズム

《薄雪》鏑木清方

芝居好きの清方が描いた「梅川忠兵衛」

冬枯れの中で、互いの体を寄せ合う一組のカップル。
歌舞伎『恋飛脚大和往来(こいのたよりやまとおうらい)』の一場面を描いた作品です。
描いたのは鏑木清方。戯作者を父に持ち、芝居が好きな少年でした。日本画家として生計を立てる以前は、挿絵画家として活躍。雑誌「歌舞伎」にコマ絵を描いたり、劇評を書くなどしていました。
芝居好きの清方が、歌舞伎の名場面を題材にして、どのように女性の美しさを表現したのか、紐解いてまいりましょう。

画面左の黒い着物を着た女は、大坂新地の遊女「梅川」。右の男は飛脚問屋の若旦那「亀屋忠兵衛」です。
梅川を身請けしようとして、店の金に手をつけてしまった忠兵衛。今で言うところの公金横領です。当時は捕まれば死罪が待っていました。その忠兵衛とともに逃亡を決意する梅川。この絶望的な状況におかれた悲劇のヒロインを、清方は精緻な筆で描き出しています。

梅川の姿勢に注目してみましょう。
前かがみのようでいて、背筋は真っ直ぐ。実はこの形には、女性を美しく見せる秘訣があります。
黒地の着物で見えづらいのですが、膝を床につけ、お尻をかかとに乗せています。このようにすること腰が入りますので、背中は丸まらずに美しい姿勢を作ることができるのです。そして、胸のあたりを相手へ密着させます。
この形は、日本舞踊のクドキのシーンなどでよく用いられています。女が男にもたれかかっているように見えますが、実際は背筋力で体勢をキープ。相手に自分の体重はかけません。この形を実際にやっていただきますと、翌日は筋肉痛になるかもしれませんのでお気をつけ下さいね。

計算された色気と美の演出

この梅川、無防備で衝動的なか弱い女のようでいて、よく見ると下半身を忠兵衛に絡ませて…実になまめかしいのです。遊女の色気は、広襟の内側や、袖口、振り口、身八つ口などからわずかに見える緋色にも演出されています。男性の着物では、振り口・身八つ口は縫い閉じられていますので、女性だけに許されたチラ見せポイントとでも申しましょう。
(実際には、おはしょりを調整するための機能です。想像してしまった殿方、あしからず!)

黒地の着物の裾には「梅」を配し、帯の図柄は「雪輪」で忠兵衛とお揃い。粉雪が舞っているという場面設定をさりげなく演出しています。
ちなみに、近年の歌舞伎での梅川の衣装は、黒地の着物に梅と流水模様、献上博多帯に紅白の帯締め、緋色の帯揚げ、鴇色の裾回し(付け)とシゴキ、というのが定番になってきており、忠兵衛とペアルックで登場します。
(役者の好みによって変わることもあります。)

《薄雪》鏑木清方

薄幸な女の美しさ

表情の細部もご覧下さい。つぶし島田の手絡がほどけて鬢にかかり、髱(つと)の生え際もほつれて乱れています。唇はわずかに開き、そっと眉を寄せてこちらを見ているよう…。
思わず彼女と目が合ったような気分になり、梅川と忠兵衛の秘めやかな抱擁を覗いてしまったような、バツの悪ささえ覚えてしまうのは私だけでしょうか。
苦界で生きてきた遊女の、ほんの束の間の真実の愛。薄幸な女の美しさと哀しみ。
芝居に精通した鏑木清方でなければ辿り着けなかったであろう、独自の視点で描写された凄絶な場面です。

薄幸なヒロインほど美しく見える!という説は、この梅川が証明しているように思います。美しい女性は、いかなる極限状態でも美しいのでありました。真似するのは大変そうですが……。
(中千尋)

 

【作品解説】
近松門左衛門作『冥途の飛脚』に着想した作品である。実際に起きた事件を元にして書かれており、世話浄瑠璃から始まって、後に歌舞伎や日本舞踊へと発展していった。人気があり現在も頻繁に上演されている。
作品の画題について鏑木清方は語っている 。「『薄雪』といふ命題は、やがてはかなく消え行く身の、青春の二人の運命を、象徴する意味と、一つは、近松の原作中に、薄雪といふ文句のある点とを以って、かやうに題したのである。」(鏑木清方文集一)『冥途の飛脚』を常々研究していた清方が、福助の梅川、雁次郎の忠兵衛の舞台を見て、近松のそれとはまた違った趣に興味を持ち、この作品の筆をとったと述懐している。

【作家略歴】
鏑木清方(かぶらき きよかた)1878~1972(明治11年~昭和47年)
東京神田生まれ。本名健一。父は「やまと新聞」創立者の戯作者・條野採菊。13歳で浮世絵歌川派の系譜にある水野年方へ入門。15歳で「やまと新聞」に挿絵を描き始め、やがて挿絵画家として独立。泉鏡花とも親交を結び、一流文芸雑誌の口絵を飾るようになる。明治34年に青年画家同志の絵画研究会「烏合会」を結成し、活躍の場を絵画作品へ移行。自身の門下生には、伊東深水、寺島紫明、山川秀峰など、美人画家の精鋭多数。昭和29年文化勲章受賞。昭和47年死去。

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